子どもは「作品」ではない。「完璧な親」なんていない。
最近、子どもを持つことについてのハードルが、必要以上に高くなっているように感じます。
「十分な収入がないといけない」
「習い事をたくさんさせて、良い学校に入れないといけない」
そんな前提が、まるで当たり前のように語られています。
しかし、それは本当に“当たり前”なのでしょうか。
現代社会では、子どもをまるで「作品」のように扱う感覚が強くなっている気がします。

全部フル装備なんて、貴族じゃあるまいし不可能
習い事をいくつも掛け持ちさせ、私立の学校に入れ、完璧な教育環境を整えようとする。
しかし、その基準をすべて満たそうとすると、普通の家庭では到底追いつきません。
当たり前です。
それは「貴族の子育て」なのですから。
世界を見渡すと、アジアやアフリカの国々では多くの子どもが生まれています。
経済的には日本よりもずっと厳しい環境の中で、人々は立派に子どもを育てています。
そう考えると、「豊かな日本で子どもを産めない」わけがありません。
実際、子どもの頃のことを思い出すと、裕福な家庭ばかりではありませんでした。
それでも、みんな楽しそうに遊んでいました。
カードを買うお金がない子は、借りたデッキでプレイしたり、みんなから貰ったカードでデッキを作る。
それだけで十分楽しかった。
豪華なおもちゃがなくても、塾や習い事に行かなくても、子どもは子どもなりに世界を楽しむ力を持っています。
現代の日本では「完璧な環境が整わなければ子どもを持てない」という思い込みが強くなりすぎているのです。
子育ては一人で完結するものではない
本来、子育ては一人で完結するものではありません。
親の手を借りる。
祖父母の手を借りる。
兄弟や親戚の手を借りる。
地域の人の手を借りる。
そうやって、多くの人の手の中で子どもは育っていくものです。
昔の日本は、まさにそうでした。
近所の大人が子どもを叱ることもあれば、誰かの家でご飯を食べてくることもある。
親だけがすべてを背負うわけではありませんでした。
ところが現代では、「親がすべて責任を持たなければならない」という空気が強くなりすぎています。
環境にも、自分自身にも、完璧を求めすぎている。
その結果、「まだ自分には無理だ」と思ってしまう人が増えているのではないでしょうか。
完璧な親なんていません。
親は、子どもと一緒に成長していくものです。
若くして、健康に産んであげること以上のギフトはない
現代では、教育や習い事、将来の進学のことばかりが語られがちですが、子どもにとって最初にもらう一番大きな贈り物は、実はもっとシンプルです。
それは、健康な体でこの世界に生まれてくることです。

もはや常識ですが、医学的にも若い年齢での出産のほうが母体の負担が少なく、子どもの健康リスクも低いとされています。
つまり、特別な教育環境や高価な習い事よりも前に、まず「元気に生まれてくること」が、子どもにとって何よりのスタートラインになります。
どれだけお金をかけても、どれだけ教育環境を整えても、「健康に生まれること」を後から買うことはできません。
若くして健康な体で子どもを産み、育てていくことは、それだけで十分に価値のある、かけがえのない贈り物なのです。
一番の不幸は、そもそも生まれてこないこと
一方で、本当に一番の不幸とは何なのか。
それは、十分な教育を受けられないことでも、裕福な家庭に生まれないことでもありません。
一番の不幸は、そもそも生まれてこないことではないでしょうか。

もちろん、無責任に子どもを持てと言いたいわけではありません。
ただ、必要以上に完璧を求めて、子どもが生まれる可能性そのものを閉じてしまうのは、もったいないという次元を超えて、やるせなく感じます。
子育てに必要なのは、完璧な環境ではありません。
「なんとかなる!」という勇気をいち早く持つことです。
これは、起業にもどこか似ている気がします。
僕自身、会社を立ち上げたとき、「準備が整った」と思える瞬間は一度もありませんでした。
むしろ実際にやってみると、事前に想定していた準備の多くはほとんど役に立たず、的外れなことばかりだったと気づきました。
準備が整う日など、永遠に来ないのです。
結局のところ、やってみて、失敗して、修正して、また前に進む。
その繰り返しの中でしか前に進めませんでした。
子育ても、きっとそれと同じなのだと思います。
親も、完成された存在ではありません。
子どもも、これから成長していく途中の存在です。
だからこそ、親も子どもも一緒に成長していけばいい。
人は「次の世代へ何を残したか」で評価される存在
おじいちゃんが尊敬されていたのはなぜでしょうか。
それは、戦後の焼け野原から日本を復興させたからです。
何もないところから必死に働き、国を立て直し、次の世代に社会を引き渡した。
だからこそ、自然と尊敬されたのだと思います。
おばあちゃんが尊敬されていたのはなぜでしょうか。
それは、決して楽ではない時代の中で、子どもたちを懸命に育て、家族を支え、次の世代へと命をつないできたからです。
では、受け継がれたこの豊かな時代で次の世代にバトンも渡さず、
ただ自分の安心や満足のためだけに生きた人は、果たして同じように尊敬されるのでしょうか。
もちろん、人それぞれの人生があります。
ただ、人はどこかで「次の世代へ何を残したか」で評価される存在であるように思います。
社会も、文化も、家族も、すべてはバトンリレーです。
誰かが受け取り、誰かに渡していく。
その連続の中で、社会は続いてきました。
そして今、そのバトンを手にしているのは、まぎれもなく僕たち自身です。
次の世代へ何を渡すのかは、これからの僕たちの生き方にかかっています。