八日目の蝉を観て
先日、久しぶりに映画「八日目の蝉」を観ました。
公開当時も強い衝撃を受けた作品でしたが、いまの僕が観ると、その印象はまったく別の深さをもって胸に迫ってきました。
精子提供者として歩んできた日々、そしてこれからの活動に向き合ううえで、大切な気づきを改めて与えてくれた作品でした。
物語は、愛する不倫相手の男性との間に子どもを授かることが叶わず、さらに中絶を経て自らが「子どもを産めない身体」になってしまった女性・希和子が、その事実をきっかけに、不倫相手の妻が産んだ赤ん坊を誘拐してしまうところから始まります。
重く痛ましい出来事でありながらも、決して単純に「犯罪」とだけ切り捨てることのできない、複雑で深い心の揺れが描かれています。

産めなくなった彼女は、「育てる」という行為を通して、自分の存在理由を必死に掴み取ろうとする。
その献身と葛藤の姿を見ていると、人が子どもに向ける愛情というものが、血縁という枠をいとも簡単に越えていくことを思い知らされます。
希和子が赤ん坊にそっと触れる手。
揺れる心を必死に抑えながら日々を紡ぐ姿。
そして「母でありたい」という痛いほど純粋な願い。
それらを目の当たりにしているうちに、僕は自然と、これまで出会い、支えてきた多くのご夫婦の顔を思い出していました。
子どもを授かることは、誰にとっても“当たり前”ではありません。
叶う人もいれば、努力を続けても辿り着けない人もいる。
その過程には、言葉にできないほどの不安や焦り、他人には見せない涙が確かに存在します。
映画の中で希和子は、「母になりたかった」という思いを胸の奥に抱えたまま生きています。
それは願いという淡いものでも、夢という鮮やかなものでもなく、たったひとりの女性の“切実な叫び”でした。

ときどき僕は、精子提供という活動の意義について自問自答します。
「生まれた子をちゃんと愛してくれているのだろうか」
「ある意味でこれは、運命を捻じ曲げる行為ではないのか」
「八日目の蝉」というタイトルは、“本来そこには存在し得ないもの”の暗喩だと言われています。
希和子にとっての子どもがそうであったように、FTM夫婦、レズビアンカップル、無精子症で悩むご夫婦のもとに生まれた子どもたちもまた、僕が介在しなければ存在し得なかった生命です。
そんな中で観た「八日目の蝉」は、僕に静かで、それでいて揺るぎない答えを返してくれました。
それは――
“母になりたいと願う女性が抱く想いは、この世でもっとも尊いものだ”
という事実です。
女性が「母になりたい」と願う、人間にとって最も根源的な願い。
その願いは、ときに人を迷わせ、苦しませ、そして何度つまずいても立ち上がらせるほど強い。
希和子が歩んだ年月は、その尊さと残酷さを痛いほど突きつけてきました。
そして僕ははっきり気づかされたのです――
この叫びに手を伸ばせる場所に、僕は立っているのだと。

僕が提供した精子で生まれた子どもたちは、これまでに何人もいます。
そのご家庭がどれほど喜びに包まれたかをご夫婦からのメッセージや出産報告で知るたび、胸の奥が温かくなります。
映画のラストで、希和子から子どもを取り上げること――
それは僕にはできません。
希和子と同じように、いや、それ以上に強く深く、子どもを切望する方々をこの目でたくさん見てきたからです。
そして事実お問い合わせフォームには、「本当はもう少し頑張れたかもしれないけれど、スケジュールと心に余裕を持ちたいから、、、」と、お断りさせていただいた方が、何十名もいらっしゃいます。
「何年も、何百万円もかけても授からず、もがき苦しんでいる方が大勢いるのに――
僕ならそれを軽々と超えられると分かっていて、何をしているのか」
そんな余韻を抱えたまま画面を見つめながら、僕はひとつ決めました。
――もうひと頑張りしよう。
自分の勇気や行動が、誰かの人生の支えになる。
たった1日、たった1回、1〜2時間の頑張りで、誰かの「母になりたい」「父になりたい」という願いに寄り添うことができるのなら。
この役割を担えるうちは、真摯に、誠実に向き合っていきたいと思います。